03 本格的なごま油生産

戦中戦後の苦境を乗り越え、
本格的なごま油生産に移行

 戦時中の四日市製油場

 1935年(昭和10)1⽉の外国為替資⾦許可制により、輸⼊原料の買い付け資⾦に政府の承諾が必要となりました。原料の⼤部分を輸⼊に頼っていた植物油脂業界、もちろん四⽇市製油場も影響を受けました。戦局が進展するにつれて事業統制も始まり、1942年9⽉に帝国油糧統制㈱の設⽴後は、⼀切の⽣産・配給がこの会社の統制下に置かれました。さらに1943年4⽉の事業整備では、四⽇市に拠点を置く植物油脂会社は四⽇市製油場を含む5企業のみが残存を許されました。後に5社は共同して資本⾦200万円の東亜製油㈱を設⽴しますが、1945年の四⽇市空襲において壊滅的な損害を受けたのです。


四日市製油場の俯瞰図


四日市製油場時代の商品案内

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 本格的なごま油生産への移行

 8⽉15⽇の終戦を迎え、帝国油糧統制㈱は油糧配給公団となりましたが、依然として⽣産・配給の統制は続けられました。東亜製油㈱は解散し、四⽇市製油場も個⼈経営として再開。しかしながら、原料の輸⼊が⾮常に困難であり、周辺で⽣産される菜種を原料とした菜種油を主として製造を続けました。その後、次第に原料輸⼊が増⼤していき、四⽇市製油場は輸⼊原料を主とする⽣産体制に移⾏しました。
1950年(昭和25)の油糧配合公団解散を機に⾃由競争の時代が始まりましたが、同年に朝鮮戦争が勃発。戦争の⻑期化を予想した各業者は、原料が購入できなくなることを恐れ、⼤量買付けを⾏いました。四日市の製油業界でも菜種原料で同様のことが起こりました。その結果、菜種原料の価格が高騰したのです。しかしながら、予想に反し戦争は⻑期化せず、各油糧業者は⼤きな損失を被る結果となりました。特に資本⼒が微⼒であった四⽇市の製油業者にとってこの損失はかなりの痛⼿であり、これを契機に製油業者の⽣産専⾨化が始まりました。四⽇市製油場は菜種油の製造を止め、本格的にごま油⽣産へ移⾏していくことなりました。1951年1⽉に四⽇市製油場は資本⾦1,000万円の株式会社四⽇市製油場に改組。⾃由競争のなかで販路を拡⼤していきました。


商品ラインナップ


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Column

1957年当時の株式会社四日市製油場

 従業員数は39名、⽣産設備はアンダーソン型エキスペラー5台、ゲージプレス8基、精製脱臭脱酸設備⼀式など、⽣産能⼒は⽉500t、同年の⽣産額は2億8,000万円でした。

ケージプレス

アンダーソン型エキスペラー