02 製油業界のさきがけ
地元四日市原産の菜種油を使い、
八代目九鬼紋七が事業を開始
四日市製油株式会社を設立
明治時代になると国策として殖産興業が奨励され、近代的な資本主義経済が興ってきました。1882年(明治15)、⼋代⽬九⻤紋七を含む地元有志が三重紙質製造所を設⽴。1886年には社名を四⽇市⼯業株式会社と改称し、新たな商売として製油業に着手します。元禄時代より四⽇市原産の菜種油は「伊勢⽔」と呼ばれ、質がよく、⼿⼯業的な⼿絞りにより多量に⽣産されていました。四⽇市港からは最⼤の消費地・江⼾に盛んに出荷されており、四日市は製油業を営むには最適な土地でした。
1886年、三重県四⽇市市浜町にレンガ造りの⼯場(第一工場)を建設し、イギリスから丸絞式搾油機を輸入して製油業を開始します。これは⽇本における製油業機械化のさきがけであるといわれています。1888年2⽉には日本資本主義の父と称される渋沢栄一の助力を得て、製油部⾨を独⽴させた四⽇市製油株式会社を設⽴します。尚、当時は菜種油の製造が主であり、ごま油の製造量はわずかでした。
空白
数々の苦節とごま油の増産
イギリス⼈技師の指導のもと、本格的な機械搾油は⼿絞りに⽐べて⾶躍的に⽣産を向上させました。⽣産性が⾼まるとともに原料の菜種の購⼊量も増⼤しますが、経験と知識が乏しく原料購⼊や菜種油取引で⼤きな損失を被ります。1890年6⽉、ついには解散もやむなしの危機的状況に陥ったのです。このとき、⼋代⽬九⻤紋七は、せっかくの機械製油が廃絶することを憂い、四⽇市製油㈱から⽣産設備を譲り受けます。そして1892年6⽉に四⽇市製油場と改称して、個⼈経営として新たな船出を決意したのです。
1906年には⽇本初となるエキスペラー⽅式の搾油機をドイツより輸⼊して増産を図りますが、思うような成績を得られず⼤正初期には同搾油機を売却します。1912年には個⼈経営から合資会社に組織を改めます。
明治後期から⼤正時代にかけて、菜種原料の国内⽣産量が減少。さらに菜種原料を輸⼊しようにも輸⼊税が⾼く安易には輸⼊できなかったことで、菜種油産業は少しずつ衰退していきます。そのため、菜種油から他の植物油への転換を視野に入れざる得ない状況に陥ります。もちろん四⽇市製油場も例外ではなく、1918年(⼤正7)に三重県四日市市尾上町に第⼆⼯場を新設し、ごま油の増産体制を整えます。
ごま油により窮地を脱したかに思えましたが、1920年の戦後恐慌が⼤きな痛手となり事業の縮小を余儀なくされます。合資会社から再び個⼈経営となり、1927年(昭和2)には第一工場を売却することになります。