01 九鬼家のルーツ

天下に名を馳せた
「九鬼水軍」を率いた九鬼嘉隆

九鬼産業のルーツとなる人物

 九⻤産業株式会社の創業家である九⻤家の出⾃は不明な点も多く、南⽅より海を渡ってきたといわれています。九⻤家が歴史において登場するのは1578 年(天正6)、戦国に遡ります。当時最強と謳われた村上⽔軍(⽑利⽔軍)600 隻を、世界史上初の鉄張り巨船7 艦で撃破した「九⻤⽔軍」の活躍です。九⻤⽔軍は最強の⽔軍として恐れられ、この⽔軍の領袖こそが九⻤嘉隆(1542〜1600年10 ⽉12 ⽇)であり、九⻤産業㈱のルーツとなる⼈物でした。

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九鬼嘉隆とは

 志摩の国衆の⼀員として⾝を⽴て、織⽥信⻑や豊⾂秀吉のお抱え⽔軍である九⻤⽔軍を率いた九⻤嘉隆。信⻑とともに瀬⼾内海を活動拠点としていた村上⽔軍を破り、3 万5000 ⽯の禄を得て、⿃⽻藩初代藩主となります。信⻑の死後は秀吉の命を受け、朝鮮出兵するなど⽇本の歴史と深く関わってきましたが、関ケ原の戦いで嘉隆に転機が訪れます。⼀族存続のために嘉隆は⻄軍 ⽯⽥三成に、⼦の守隆は東軍に与して合戦に参加。嘉隆は敗戦し、⿃⽻の答志島にて⾃害します。このとき、同じ⻄軍についていた守隆の末の弟が四⽇市の地に敗⾛し、後の四日市九鬼家に繋がります。なお、嘉隆は守隆によって九⻤家の菩提寺・常安寺に葬られました。同寺には嘉隆の肖像画が残っています。
 戦に明け暮れた戦国時代にあって、嘉隆は⽔軍のリーダーとして活躍しました。東・⻄軍のどちらにつくかの判断が死期を早めましたが、⽔上を舞台にその活躍は歴史を動かしたといっても過言ではありません。⼀⽅で茶道にも造詣が深く、しばしば茶会を催すなど、⽂武備えた⼈物であったそうです。


九鬼嘉隆肖像画

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四日市・九鬼家のはじまり

 四日市に敗走した守隆の末の弟は、この地に住まいを構え、水軍としての能力を活かして兵庫県・赤穂の塩を関東に販売するなど回船商売を開始します。江戸時代には武士を捨て商人となり、これが四日市・九鬼家の始まりです。その後、九鬼家は四日市に菜種畑が広がっていることに着目し、製油業に着手します。